写真のオリジナリティとは
珍しく精力的に「写真」と向き合っている今日この頃です。見えているものと見えてないものがあるのですが、写真を綺麗に撮ることは実はそこまでハードルが高いことではないというのが結論と事実です。撮るだけなら「機材」「人」「ある程度の知識」「環境」「忍耐」が揃っていればあとはカメラの仕事です。所謂趣味でやってます程度の写真であれば、誰がとっても特定の条件がクリアできれば同じ写真に近しいものが撮れます。
これはある程度カメラを使うことを軸にした人間であれば、皆思うことなんですが、風景写真は「そのスポットを1番に発見した人間」のみが本来の賞賛を受けるべきで、「オリジナル」の他は正直グレードが下がった模写をする存在であるというジレンマがあります。わかっていながら、自分の方が良いの撮れるという人や、いいねのために撮るという方が大半です。くだらないと切って捨てることは容易ですが、それも立派な戦略であると言えます。
僕の写真はどうでしょうか。現像は人と違うとよく言われますが、「オリジナル」があるかと言われれば、その色使い程度で「自分」の存在が現れている写真は正直できているのかという疑問はついてまわります。もちろん自分で撮った写真を現像する際にカメラマンの特性が大きく反映することで「オリジナル感」は演出されますが、やっぱり「感」なんですよね。
もちろん被写体さんを撮る角度や、身長や体重によるカメラの構え方の変化でカメラマンの「癖」は、出てくるとは思います。ただ、「個性」であるかと言えば違う言葉だと断定できます。
では、「個性」や「オリジナリティ」が必要なのかと言われれば、正直いらないとも思っています。今までの論調で「いや!?オリジナリティ欲しいって話じゃ!?」と思われたかと思いますが、写真を写真として美しく構成するには、定説・標準なものを撮影する方が美しいと感じる母数は多いと思っているからです。
じゃぁなんでオリジナリティ欲しそうに話てるのかというとやっぱり「個性」が見える写真が魅力的だと感じているからです。支離滅裂じゃない!と思う方は正常です。でも、中にはカメラマンさんの中で、この「標準」なのに「個性」を感じられる写真を撮る方はいるのです。
例えば、東 京祐氏は商業で活躍されているため、突飛な写真を撮られてるイメージはないです。ただ、東氏の写真が流れてくると、「あ、氏の写真だ」とインプットされる不思議な現象があります。ここらへんが高いレベル「標準」の写真であるのに「個性」や「オリジナリティ」を感じるポイントかもしれません。
松岡 一哲氏も同じく、商業で活躍されているカメラマンです。写真すごい、好きです。氏の写真も特別なシーンは多少あれど高いレベル「標準」の域にいると思います。良すぎる標準ですが、他に言語化する術がないので、適切な言葉ではないと知りつつもこのように表現しています。同じく写真には氏の「個性」を感じることができる。
今回は好きな写真家さん2名を例に挙げさせていただいたが、商業という「標準」的な写真を求められる世界で、自分の「個性」を露出できているとんでもない例だと思います。
2人とも感じるのが、写真に「標準」以外の何かを感じられるところです。一番近い言葉は「エロティシズム」でしょうか。「温度」かもしれませんし、もしかしたら僕が勝手に思っているだけかもしれない「何か」なんですが、確かにそこにあると感じます。
最近、自分でするオファーはできるだけ肌を露出できる状態をお願いするパターンが多いです。自分のスペックが低いからこそ出るお願いなのですが、僕個人での能力では、この「温度感・エロティシズム」を出すことが難しいです。なので、それを少しでも作りやすくする環境を作る方向で考えることが多くなってます。
総合して考えると「個性」や「オリジナリティ」は、大きな塊ではなく隙間に差し込むようなエッセンスである可能性が高いと考えてます。特にポートレートの場合は、被写体さんを選ぶところから作品は始まってると言いますが、そうでなくても発生するこのオリジナリティはまさに「センス」と言っても過言ではないのかもしれません。
では、センスがない自分はどうするのかというと、「機材」にフォーカスすることも一考しなくてはならないです。ただ、これもやりすぎると逸脱してしまうので、僕が思う「10年後見ても良いと感じる写真」にはならない説もあるので、難しい。
以前の記事で、「撮影は試合だ!セッションだ!」という反論で「いや、撮影はどっちかっていうと性行為だよ」と言いましたが、結局僕に無い能力は被写体さんとの協力でどうにかするしか方法はないのかなと思ってます。自分のスペックが低いことは理解して、どう作っていくか、どう温度を出すか、どう個性を定義するか、二人三脚でやっていくのが僕の能力の限界値だなと自覚し始めてます。
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