写真に映るのは、被写体さんだけではない


もう11月になりましたね、時が経つのは早いものです。先月、七五三の撮影をさせていただいた際、ちょうど前まで気温が高かったので、「シャツ1枚で大丈夫だろう!」と思って挑戦したら、街には既にダウンジャケットを着た人たちが多くいて、完全に失敗したなと感じました。まあ、しょうがないか、と思いつつも、現地でコンビニに行ってカイロを買おうかなと考えましたが、現地にはコンビニもなく、ライフもない状況でした。体を温めながら反復横跳びで撮影に挑みました。結局、無事に終えました。

さて、タイトルの「写真に映るのは、被写体さんだけではない」は、最近私が考えていることです。以前、好きな写真家に会う機会がありました。その時の印象が今になって「あ、そういうことなのかもしれない」と感じています。

写真というものは、一般的には被写体さんの力だと言われることがあります。被写体さんの裏垢で可愛い子ばかりを撮っているカメラマンは自分の力で勝負すべきだ、と言われることもあります。確かにそれも一理ありますが、最近ではそれだけではないと思っています。

過去に会った写真家は、非常に淡い優しい写真を撮る方でした。その方は、とても優しく、眩しすぎるほどの印象でした。私としては、その人は隠れた属性があるように感じました。写真の調整や編集、画角、レンズ選びには、必ずカメラマンとしての「何か」が存在していました。

例えば、撮って出しでやっているカメラマンはせっかちかもしれませんし、絵画のような写真を撮る人はアーティスト気質でナルシストかもしれません。つまり、写真には被写体さんとカメラマンの人間的な部分が描写されることがあるのです。